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広報委員が行く!会社訪問

株式会社ビー・ブレーン

所在地 : 東京都港区赤坂7-11-9
赤坂三基ビル5F・6F・7F・8F
電 話 : 03-5570-8620
FAX : 03-5570-9255
代表取締役社長 : 西 敏也
従業員数:58人
設立:平成2年9月11日

 

今回の担当は、僕、オフィスぼくらの岩立良作です。

そして今回お訪ねしたのは、赤坂の一等地にあって、一階が有名な和菓子屋さん「青野」が入っているビルの5階・6階・7階・8階に社屋がある様式会社ビー・ブレーン。

平成2年9月11日設立というから、今年で25周年の会社。

 

インタビュアー : 広報委員 (有)オフィスぼくら 岩立 良作
写真撮影 : 広報委員 WACホールディング(株) 岡村 宇之
(2016年2月取材)

 

この会社BEE BRAIN((ビー・ブレーン)を語る上で、欠かせないのが社長の西敏也さんの存在。
ここでは、彼の人生・一代記を紹介させて頂きながら社史となるよう綴っていきたいと思います。

 

≪その生い立ち≫

 

株式会社BEE(ビー) BRAIN(ブレーン)社長、西敏也さんは今から56年前、昭和34年に鹿児島県川内(せんだい)市(現:薩摩川内市)で、5人兄弟の末っ子として生れています。(長女、次女、長男、三女、本人)
家業はうなぎ屋さん。敏也さんのお父さんは、長男にはうなぎの養殖をさせ、末っ子の敏也さんには営業職で、男兄弟二人でうなぎ屋を継いでもらいたいと願っていました。
しかし、敏也少年はうなぎ屋を継ぐ事に抵抗を感じていました。他に何かしたい事があるほどではないけれどでも、とにかくうなぎ屋になるのはどうしても嫌だったのです。
かと言って、父に面と向かって、イヤだとは言えません。
とても言いづらかったのでした。
そこで母にだけ言いました。「家業を継ぐのはイヤだ」と。
そして川内(せんだい)商業高校卒業後のある日、先のビジョンも見えないまま鹿児島を後にして、東京を目指します。

 

 

≪上京編≫

 

駅には、母だけがそっと送りに来てくれました。
父には内緒の、いわば家出です。
敏也少年は。ボストンバッグひとつ持って、♪北へ、北へ、向かった♪
まるで同じ鹿児島の生んだスター、長渕剛のように…
だが、列車がやがて博多に着こうという頃、敏也少年は、重大な事に気づきます。

 

ポケットの中に、ナント現金が1万円しか入っていなかったのです。(なんたるドジでしょう)

 

これでは、とうてい東京に行くには足りません。
いさんで東京を目指したはいいが…はた?と困った敏也少年は考えました。
いわば、家出同然で出てきた身です。「そうだ!ここは一旦、山口県萩市にいる姉ちゃんとこへ駆けこんじゃおう…」
そうです。山口県萩市には、裕福な家に嫁いでお金もありそうな姉がいたのでした。

 

萩に住む姉は、困りながらも弟の面倒を見ることにしてくれました。
お陰さまで、そこでバイトをしておよそ11ヶ月。80万ものお金が溜まりました。
そうして、敏也少年は80万のお金をふところに、改めて、東へ、東へ、東京を目指したのでした。

 

やがて東京へ着いた敏也少年。
ひとまず、当時平和島で暮らしていたひとつ上の姉の元にころがりこみました。
(なんかっていうと、姉を頼りにしてますねェ)
美人だったお姉さんは、JALのスチュワーデスをしていました。
さて、憧れの東京生活がスタートはしたのですが、かといってコレをやりたくて東京へ来た、というほどではないので(とにかくうなぎ屋がイヤだっただけ)とりあえず親類のおじさんの経営する建築機械をリースする会社でバイトを始めたのでした。
(ここでも親類頼みですかぁ)

 

そうこうするある日。
そう、ちょうど19歳の誕生日の前日あたりの事…
赤坂は一ツ木通り辺りをブラブラ歩いていたら電柱に貼られた掲示物が目に留まったのでした。

 

そこには「TVアシスタント募集」の文字が!

 

『これだァ!!』―――――敏也少年は、直感的にそう感じたのでした。

 

そもそも、敏也少年には小さい頃から好きだったあるTV番組がありました。
それは、当時日本テレビ系列で放送していた「すばらしき世界旅行」という番組。
それに触発されて、ツアーコンダクターになりたかったくらいだったそうです。
つまり、仕事で世界を廻る。そんな仕事が漠然とながらやりたかったことなんですね。
(あったんじゃん。やりたかったこと)

 

そこからは迷わず、テレビ制作会社(株)テレキャスト社に。

 

 

≪テレビを目指す≫

 

そして晴れてテレキャストのCM部に配属になり、3本ほどのCMに関わったそうです。
そんな頃、テレキャストの先輩が「本格的にテレビやりたいんだったら、やっぱり専門学校ぐらい出といた方がいいヨ」と言ってくれ、敏也少年、この道に本腰を入れようと決めたのでした。
そして、かつて山口県萩時代にバイトで貯めた例の80万を入学金に使い、東京ビジュアルアーツに入学したのでした。

 

およそ2年、専門学校でテレビを学んだ後、西敏也さんは株式会社フルハウスの門を叩きました。その時の面接員は、岩沢さんという人でしたが、面接の時姉がスチュワーデスをしていると言ったら一発合格。即、入社をOKしてくれたのでした。
そして「じゃあ、お前のお姉ちゃんのスチュワーデス仲間入れて俺らと合コンしようぜ!!」と言ってきたのでした。なにせ当時は、スチュワーデスと言ったら今の女子アナくらいの響きがあり、大人気職業でしたからね。

 

そんなこんなであっさり“業界入り”を果たした西さんですが、数年後、そのフルハウスが内部分裂を起こし、3つの会社に分断してしまいます。
一つは「禅プランニング」ひとつは「ハウフルス」、あとひとつは「ウインズ・モーメント」。
西さんは流れ上、禅プランニングに行きました。
その会社で担当したのが「Do!!スポーツ」という番組。
この番組はその斬新な作りで話題をとり、ヒット番組に育っていきました。
その後、テレビ東京に自ら企画を出し、通した「トキメキ!おちゃめ組」という番組。
これも当時ヒトケタしか視聴率がとれなかったこの枠を、フタケタの数字をはじき出してヒット番組に育てたのでした。

 

そんな頃、禅プランニングに事件が起きます。
会社の吸収合併です。

 

地方の、テレビ制作とかやったこともない企業が、東京でテレビ事業に乗り出したいと思い
進出してきて禅プランニングの株を操作し、結果、吸収に成功したのでした。
しかし、吸収したのがテレビ制作会社です。
そこに人材がいるだけですから、彼ら人材が新しい経営者についていかなければ、それまでです。
ほぼ全社員が抵抗を示し、新しく来た上層部にそっぽを向き、やがて社員たちは少しづつ退社していきました。
西さんもその1人。数人を引き連れ、禅プランニングを辞めたのでした。

 

 

≪(株)ビー・ブレーン設立≫

 

そして設立したのが、株式会社BEE(ビー) BRAIN(ブレーン)でした。赤坂のビルの1部屋からスタートしました。

 

筆者も当時、若手の放送作家で、その頃のビー・ブレーン社に行っておりますが、1DKの実に狭い物件に、ビー・ブレーンのメンバーと外部スタッフ合計十数人がミッチリ入り込んで、椅子に座れるのはうち4~5人。若手ADは周りを取り囲んで立って会議という状況でしたので、その状況を称して「この会社、日本で一番人口密度が高い制作会社だなァ…」と言った覚えがあります。
しかし、その分熱気がすごく、今風にいえばすごい伸び(・・)しろ(・・)を感じた会社ではありました。

 

その当時、ビー・ブレーンのレギュラー番組は「トキメキ!おちゃめ組」一本だけ。
それだけに、西さん、自分の企画でもあるし、このひと番組でこの新会社を持たせなければいけないとあって、その燃え方のスゴいこと。当時、筆者が直接目にした印象としては、年中カッカと怒っていた。そして必死で毎日を過ごしていたという感じでした。

 

この「トキメキ!おちゃめ組」メインMCは、兵藤ゆきさんで決まっていましたが、サブMCとして当時は新人のABブラザーズ。―――――つまり、中山秀征と松野くんのコンビ。西さん的にもこの番組で初めて顔を見るタレントでしたが、当時から中山秀ちゃんの明るいがんばリズムに好感を持っていたといいます。

 

とにかく、会社設立後数年間は「トキメキ!おちゃめ組」だけでしのいでいる日々でしたが、そんなビー・ブレーン、西さんに明るい日差しが差し込むのは、ある人物との出会いでした。

 

その人物とは、フジテレビのディレクター、水口さん。
水口さんは当時、「ものまね四天王」のディレクター。演出はフジテレビの名物ディレクターとして有名だった木村忠寛さん。鬼の演出家としてその名も轟く木村さんの下で、相当鍛えられた水口ディレクター、同じように鍛えられたディレクターの西さん。この水口、西の二人には同じ木村さんの圧の下で働く戦友にも似た友情がやがて生れてきます。

 

それがよかったのでしょう、やがて水口さんがフジテレビの編成マンとなった時、「さんまのスポーツするぞ」の担当プロデューサーとなったのですが、その折、迷うことなくビー・ブレーンを制作協力会社として入れてくれたのでした。
このことが、ビー・ブレーンにとって大きなターニングポイントとなっていくのでした。

 

水口さんは、その後もビー・ブレーンに次々と仕事を廻してくれて、ビー・ブレーンはどんどん大きくなって行きました。やがて、ナベプロがフジテレビで昼の番組「ウチくる!?」を企画した時、その番組のメインMC中山秀ちゃんは迷うことなくその制作をビー・ブレーンに、つまり西さんに振ってくれたのでした。
「ウチくる!?」がその後、フジテレビの日曜昼の看板番組になっていくのはご存じの通り。
今年で17年目です。

 

現在は数々のレギュラー番組を持ち、大きな制作会社に発展したビー・ブレーン。そのレギュラー14本。社員総数58人(子会社及びフリープロデューサー・ディレクターは除く)。
故郷のうなぎ屋を捨てて東京に出てきた鹿児島の熱血漢、西敏也社長。
ビー・ブレーンが今日のようになるのには西さん一人ではなし得ません。

 

ここで西社長に32年連れ添った(株)ビー・ブレーンの常務取締役・菅野貴志さんに、西さんの人となりを伺ってみましょう。

 

 

(株)ビー・ブレーン 常務取締役 菅野貴志さんに聞く───

 

Q. 社長 西さんはどんな人?

A. ウソがない、ものすごくまっすぐな人。

 

Q. 経営者として感心することは?

A. よその人と決してケンカしないですね。いわゆるケツをまくることはしない。
そういう意味では、ちゃんと商売人ですね。
でもお金を扱うのは好きじゃないみたいで、ひとに任せてますね。

 

Q. そんな西社長の、あえて欠点を言えば?

A. そうですね、顔に出ちゃうとこですかねぇ。
その辺は自分でよく知ってますよ。そうならないようにうまく避(よ)けてますよね。

広報委員の後記!

西敏也社長は、父親の想いは分かっていながら、あえてそれに背いて故郷を捨て、上京した人です。
その分、帰るところのない自分は絶対に東京でひと旗あげなければ男として格好(カッコ)つかないじゃないか。
そんな意地のようなものを抱えて今日(こんにち)までがんばってきたんだろうと思います。
鹿児島の熱血男子、西敏也さん。どこか長渕剛さんとダブって見えるのは僕だけでしょうか。

 

─ちなみに、故郷を捨て、いわゆる東京で一旗あげた西敏也さんを家族はどう思っているのか?!
姉さんは「よくやった!!」とベタ褒め。

 

─ところで家業のうなぎ屋は?というと、
これが残念!たたんでしまったそうです…