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広報委員が行く!会社訪問

株式会社 PASSION

 
所在地:東京都港区芝大門2-6-6
VORT芝大門5F
電話:03-3432-8418
HP:http://www.passion-tv.co.jp
代表取締役社長:榮永 英幸

 

今回はバラエティから報道・情報・スポーツまでジャンルを問わず活躍の場を広げている制作会社、株式会社PASSIONを訪問。エネルギッシュな榮永英幸社長と管理部の水田英子さんにお話を伺いました。

 

インタビュアー:広報委員長 (株)NX・中山維夫
写真:(株)エムファーム・田村正裕
(2025年5月取材)

Q.お話を伺う前に通常、会社訪問のインタビューでは、社長室に伺う場合が多いのですが・・・

最初は社長室を作っていたんですが、社員との距離感を感じたり、社長室があると社員が相談しにくいのではないかとか思い、デスクをフリーアドレスにした際になくしました。

 

 

 

Q.まずは、最近、番組のエンドロールでPASSIONさんのクレジットをよくお見かけしますが、会社名の由来をお聞かせ願えますか?

スポーツをはじめ何かを一生懸命するためには熱が必要ですよね。私は「情熱」という言葉が好きで、40歳で独立した時、「自分の生きてきた道は、熱い人生なんかな」と思って、そのまま情熱(PASSION)を会社名にしました。今ではちょっと恥ずかしいですが。

 

 

 

Q.ロゴにあるギザギザのついた歯車のようなマークが印象的ですが、これにも意味があるのですか?

「情熱の種」という意味なんです。「情熱の種を育てていって、みんなで素敵な花を咲かせよう!」という思いが込められております。
さらにPASSIONのPはProfessional(プロの仕事と責任感)、AはAction(行動力)、SはSincerity(誠実さ)、Strength(強さ)、IはImagination(想像力)、OはOriginality (独創性・個性)、NはNever give up(諦めない)と一つ一つの頭文字が合わさってPASSIONになっています。

 

 

── ここで「株式会社PASSION」の会社概要をまとめて紹介。

設 立 2007年10月
資本金 1,000万円
従業員数 41名(男性23名・女性18名)*2025年2月現在
事業内容

(1)テレビ・ラジオ番組の企画、制作、撮影、放送の業務
(2)あらゆる映像事業に関する企画、制作、撮影
(3)セールスプロモーション事業やイベントの企画提案から制作、実施
(4)広告代理店業務
(5)コマーシャルの企画及び制作

主な制作番組

【報道】news zero  news every. 真相報道バンキシャ!(NTV)

【情報 ドキュメンタリー】ZIP!(NTV)

【バラエティ】Golden SixTONES 上田と女が吠える夜 千鳥かまいたちアワー(NTV) 

【スポーツ】Going!Sports&News サンデーPUSHスポーツ プロ野球中継(NTV)

【Web】亀梨和也チャンネル(YouTube) セント・フォースゴルフクラブ(YouTube) 和田毅ラボ(YouTube) 地方自治体PR動画

 

Q.それでは、今や大きくなられたPASSIONさんではありますが、オールジャンルの番組を制作されております。 その会社の発展の真相を探るべく、まずはこの業界に入られた頃のお話を伺いたいのですが・・・

私は22歳で制作会社マイプランに入社し、ドキュメンタリー畑からこの業界のスタートを切りました。日本テレビの柏木登プロデューサーが立ち上げた「スーパーテレビ情報最前線」という番組で、ADとして参加。柏木さんの秘蔵っ子として育てられました

 

Q.ドキュメンタリーからスタートした榮永社長、当時の制作現場はいかがでしたか?

ドキュメンタリー番組ですから、取材対象者としっかり向き合うことが大切だと教わりました。ADの時に岸和田のだんじり祭を取り上げた際、「榮永は大阪出身で、和歌山の智弁和歌山で野球をやっていたのだから、岸和田は大丈夫だろ」と取材の仕込みで岸和田に3か月間住むことになりました。
岸和田の年長者や若手のいる青年会の方々と毎晩飲み歩き、いろんな人と交流して信頼を築いていくのが仕事でした。
他にも海外の麻薬ルートを解明するという企画で海外に2か月行きました。これはかなり危ない仕事で体重が5㎏ぐらい減りました。

ドキュメンタリーのほかに「独占!スポーツ情報」も担当。
元々、長嶋茂雄さんが好きで野球を始め、いつか長嶋さんと仕事がしたいと思っていました。
念願叶い、ドキュメンタリーを何本か撮らせていただきました。
最後のアテネ五輪の戦いも密着させていただきましたが……本番前に倒れてしまわれて。ドキュメンタリーやスポーツ番組以外に、オリンピックも経験したかったんです。
念願が叶い、94年の冬季五輪リレハンメルから98年長野オリンピックまでスキーの日本代表にずっとくっついて回らせてもらいました。日本テレビの山田克也さんから「お前より(スキー日本代表に関して)強いやつがいないようになれ」って言われまして、使命を全うしました。
その後2002年サッカーの日韓ワールドカップも担当。4年間ヨーロッパを回り、いろんな番組を作りました。目標としていたスポーツの大きな世界大会をやり終えたので、次第にバラエティをやりたいと思い始めたのが、30歳過ぎでした。

 

 


2008年北京オリンピックにて

 

Q.ドキュメンタリー、スポーツ番組と経験したあと、ジャンルの違うバラエティ番組の制作にすんなり移れましたか?

日本テレビの髙橋利之氏がスポーツ局から制作局に異動して「行列のできる法律相談所」を立ち上げた後、「バラエティやってみるか」とお誘いを受け、特番や「まさかのミステリー」などで演出に入りました。髙橋氏は、私がマイプランに入社したのと同じ年に日本テレビに入社していて、社会人デビューでは同期になるんですよ。彼から未だに刺激をもらっています!

 

Q.このような流れでPASSIONさんの制作する番組のジャンルが増えていくわけですが、会社経営において、その狙いは?

バラエティをやりたい人、情報番組をやりたい人、報道をやりたい人と様々な人が会社に入ってくるじゃないですか。バラエティをやっていても年齢を重ねてきたら、ちょっとドキュメンタリーやってみたいなとか、情報番組をやってみたいなとか、気持ちの変化もありますよね。年齢が上がってきてバラエティにちょっと疲れた人が他にフィールドがないと、辞めなきゃいけないこともあるじゃないですか。バラエティしかやってなかった人に次のフィールドをちゃんと作ろうと思ったんです。それでオールジャンルで節操ないなと思われますが、そういう社員を辞めないような会社にしたいな、という思いがありました。

ただ、PASSIONを起こして最初に始めたのはスポーツ番組からでした。なぜかというと「バラエティ」て、巨大な制作会社がいっぱいあるわけですよ。数人の制作会社だと孫請けになっちゃうんですよね。しかもあらゆるところからのプレッシャーも大きい。
それで会社がある程度大きくなった段階でバラエティに進出したいという構想がありました。それで2020年東京オリンピックまでは会社を安定させるためにスポーツと報道の制作をしっかりとやって、安定したベースを作り、潰れない会社を作ろうと思いました。スポーツ、報道、情報番組はそう簡単には終わらないですから。バラエティは1.2年で終わったりしますから。

 

Q.ちなみに前職のマイプランさんから独立する際も入念に計画されたんですか?

マイプランにいた時は社員が100人ぐらいいまして、制作部の部長を任されていました。
プロデューサーやチーフディレクター両方の仕事をしておりましたから、資金のシミュレーションなどをしてどうすれば利益が残るかなど3年間ぐらい準備しました。

 

Q.それでは独立当初の苦労や不安など伺いたいと思いますが…

 
会社設立時のオフィス


祝花

 

最初は小さいマンションの一角で、1人さみしくスタートしました。
部屋はダウンライトしかない中、いろんな他社の名刺を見て、「どういう名刺にしようかな」みたいなことから始めました。1年目はやる気と不安が交錯しておりました。
家族もいたし、子供は小さかったので独立して失敗したらどうしようとか、妻に1000万円ほど資本金を入れてもらってるし、もし(資本金が)飛んじゃったらどうしようとか不安が大きかったです。
家庭もあり、家も購入しているし。でもそこまで自分を追い込まないとダメなんだろうなと、だから死に物狂いで頑張りました。

そういう状況の中、周りのみんなが助けてくれました。例えば、スポーツ時代の同期だったり、日本テレビの髙橋氏もそうですけど、「お祝いより仕事だよね」ということで、2007年10月2日に独立して会社を興したんですけど、翌日3日放送の特番で「PASSION」とクレジットを入れてくれたり、日本テレビの仲間が支えてくれました。
またその頃、フジテレビでバレーボールの放送があり、大林素子さんや櫻井翔さんが放送中に「今日の試合は『パッション』が大事ですからね」とお祝いで「パッション」と連呼してくれたんです。これも凄く嬉しかったです。
私自身何の力もないので、人の繋がりだけでやってきてる、という感じですね。

 

Q.やはり榮永社長の強みはスポーツやその人脈ですか?

スポーツ選手ともすごく向き合っていますし、日本テレビでやるスポーツ特番は弊社が仕込んだりしていますから。フジテレビの「ジャンクSPORTS」でキャスティングをしていたプロデューサーもうちにいたりします。

 

Q.ここからは今の榮永社長の人となりを作る基になった学生時代のお話を伺います。スポーツ業界に強い榮永社長ですが、ご本人も学生時代からスポーツに精通されていたんですか?

高校時代は智弁和歌山の野球部でした。当時、強い野球部を作るということで名将・高嶋仁監督が奈良から来られ、私の一つ上の学年から選手が集められました。
あの頃は、和歌山では尾藤公監督率いる箕島高校が強くて、私は甲子園の一歩手前で負けて行けませんでした。私の一学年下からはずっと甲子園に行って強豪校になってますけどね。

 

智弁和歌山高時代 野球部

Q.強豪校の野球部ですから、相当、肉体面と精神面が鍛えられたのでは?

高嶋監督はもう本当に厳しい人で、3年間は地獄でした。今では絶対に考えられないですが。
当時は一学年10人しか野球部はいないのでやるしかなかったんですよね。練習量も半端なかったし、試合で初球を見逃しただけでもベンチに帰ると、かなり怒られました。智弁和歌山の野球は好球必打が基本なので!この時の厳しい経験が、どんな状況においても逃げ出さなかったり、乗り越えられる精神を作ってくれたと思っています。

 

Q. これだけの試練を智弁和歌山で乗り越えられてきたので、当然、大学でも野球は続けられたのですか?

もともとプロ野球選手になりたかったのですが、超一流選手と対戦してみて、プロは無理だなと思って。早稲田とか、東海大学など目指したのですが、セレクションで落ちてしまって。中途半端に大学で野球やって社会人野球やってもつまんないだろうなと思って。その分野でトップになれないんだったら面白くないなと思って野球は辞めたんです。
それでマスコミとか新聞記者などでスポーツ関係のメディアに興味があったので、京都でマスコミュニケーションのメディア論が学べる佛教大学の社会学部に入りました。
その時はもう野球とか全部忘れて楽しい人生を歩もうと思って。ちょうどその頃、映画『私をスキーに連れてって』が流行っていて、主演の原田知世さんも好きだったのでナンパの気持ちでスキーをやろうと思いました。最初はサークルでスキーをやろうと思っていたんですけど、新入生のクラブ勧誘でめちゃめちゃ可愛い子が体育会スキー部にいたのでそのまま入部してしまいました。
最初、スキーと言えばかっこいいイメージをしていたのですが、ジャンプ系とかアルペン系は子供の頃から北海道や長野出身のセレクション組がやっぱり強いわけで、私は陸上トレーニングでいつも走りが一番だったので、結局地味なクロスカントリーをすることに。「ちょっと身につけると勝てる!」と先輩におだてられて4年間辛くて苦しいスキー生活でした(笑)。

冬は常に野沢温泉にいて、温泉卵を作りみんなのお世話をして、昼からスキーの練習に行く感じで。その成果も出て全日本学生選手権にも一応出場しましたけどね。

 

大学時代 スキー部

Q.スキー部で活躍しながら、メディアを目指すわけですが、就職活動はいかがでしたか?

ちょうどバブルの終わりぐらいだったので、めちゃめちゃ企業が採用するわけです。
体育会系でもあるので、一部上場の企業からも内定をたくさん貰っていたんですけど、最終的に入りたかったのは日本テレビだったんです。長嶋茂雄さんの大ファンでもあり、「ウルトラクイズ」と「独占!スポーツ情報」、「TIME21」などが凄い好きな番組だったので。
残念ながら願いは叶いませんでしたが、和歌山の先輩でスポーツ局長だった長尾さんから「本当にテレビ業界に行きたいんだったら紹介するよ」と言われてマイプランに。当時、「独占!スポーツ情報」や「TIME21」を制作していたので。一部上場の内定を全部蹴って行きました。
確かに上場企業に就職すれば給料もいいし、将来も約束されてますが、自分の力で生きてみたいなとその時思ったんですね。

 

Q.コンプライアンスという言葉がなかった当時のテレビ業界に飛び込んだ榮永社長。新人時代のお話を伺います。新人AD時代はいかがでしたか?

ハードでしたね。1年間で2週間ぐらいしか家に帰れなくて。
会社の近くの銭湯に行って洗濯もして。ロッカーに着替えが全部があったりと。
仮眠ベッドもあり、そこで寝食を共にする感じで。当時、ADが少ない中、3番組程担当してました。
朝会議室で寝てたら会議が始まっていることも度々ありましたね(笑)。

 

Q.そんなAD時代から始まり、ディレクター、プロデューサーとキャリアを重ねてられるわけですが、忘れられないエピソードなどありますか?

NTV 「24時間テレビ 愛は地球を救う」津軽海峡縦断リレー

いろいろエピソードはあるんですが、PASSIONを設立して1年目に「24時間テレビ」で髙橋利之氏と津軽海峡縦断リレーというのを企画したんですよ。まだ、社員が数人の時で。
盲目の少女が津軽海峡を渡る大きな企画をうち1社でやるのはある意味賭けだったんですよ。
制作費の立替金が相当いるじゃないですか。飛行機代だけで100人分。
銀行はどこも貸してくれなくて。その資金繰りの大変さと津軽海峡を渡るという大変さの両方でしたね。中古車を買って津軽まで行き、下北半島から函館など全部の漁協をお酒を持って回ったりと、もの凄く大変でした。社員数人しかいなかったので。
私がスタッフ100人分の食事を各所に配ったり、何から何までやって本番前日の3日間は眠れなかったですね。

 

そんな苦労の甲斐もなく、1年目は失敗したんですよ。定置網をひっかけたり、色々あって1週間ぐらい謝罪行脚で東京に帰って来られなくて。ホント大変でした。
2年目は無事に成功しました。
ゴール後、温泉旅館に泊まったんですけど、足湯に入った瞬間から糸が切れたみたいに朝までそこで寝てしまったんですよ。
社長がいない!と大騒ぎにもなりました(笑)。

 

Q.学生時代に野球とスキーで鍛えた体力と精神力が人一倍おありだと思いますが、ハードな仕事をこなし続けられて体調面はいかがですか?

ちょうど6年前に胆嚢が破裂しちゃいました。
胆嚢が破裂して、すぐに手術しないと体中に毒素が回ると死んじゃうらしいんです。
救急車で運ばれたんですけどあと半日遅かったら危なかったと。それもあって会社の方針を変えることにしました。

 

Q.大病を患い、会社の方針をどのような形からどのような形へ変えたのですか?

会社設立の1年目から10年目までは、うちで制作する全てのVTRをチェックしてました。
私を信用してもらっていても、当時はまだまだ会社は無名だったので、PASSIONという会社を信用してもらうために全てのVTRをチェックしようと決めたんです。1日何十本もVTRを観てました。
ディレクターが局にプレビューするときに70点、80点を持って行かせないと会社は信頼してもらえないかと思いまして。
しかし、大病した時に病院で色々考えて。これをずっとやると社員も育たないし自分が持たないと。
社員に任せて、私は客観的に見て何かあった時にサポートするという体制に変えていかなきゃいけないと思い、体制を全部変えたんです。
バラエティ班、スポーツ班、情報班、報道班、SNS動画班と分け、それぞれに担当取締役と部長を置いて、最終的に全て共有するという体制に変えました。
すると業績もギューと(右肩上がりに)上がりました。各部が責任感と他の部に負けないぞという、良い相乗効果が出ましたね。

 

 

 

私は、本来ならば人に任せるということがなかなか出来ない性分で、全ての撮影現場や収録に顔を出したりしていましたが、それをやめる事にしたんです。

そこで始めたのがゴルフなんです。

 

Q.それではここで社長のプライベートなことをお聞きしたいと思いますが、そのゴルフを始められたのは何年前になりますか?相当な腕前では?

約10年前。現在ハンディキャップは7です。でも最初のラウンドは140を叩きました。5回目で100を切りましたけどね(笑)。

 

Q.元々の素質はあったかと思いますが、ゴルフ上達の秘訣を教えてもらえますか?

コロナ禍で仕事がリモートになった時に、千葉県の市原市にアパートを借りて、そこでリモートで仕事しながらゴルフをしておりました。練習場も安くて打ち放題2時間1,000円。コロナ禍の期間で一気に上達しましたね。

 

―― 榮永社長ありがとうございました。
それではここで一旦、社員の方にお話を伺いたいと思います。総務部・管理部で部長として活躍されている水田英子さんです。

Q.PASSIONに入社されて何年になりますか?

設立からいますので18年目になります。
榮永と会社設立前からの知り合いで独立するという話を聞き、当時私が35歳の時です。
テレビのことは右も左もわからない中、PASSIONに入りました。

 

Q.会社が産声を上げた時から管理部として会社の成長を見られてきていかがでしたか?

最初は物凄く大変と不安しかなかったです。会社は徐々に右肩上がりに成長していきましたね。
震災のあった年は、売上はどうなるかなと思ってましたがそのまま横這いで下がることはなかったですね。

 

Q.5年前ぐらいから部署制にして、ギューと売り上げも上がったとお聞きましたが、管理部の方もかなり忙しくなったのでは?

そうですね。管理部は経理と私で二人体制になりました。プロの経理と言える人が入ってくれて更に経理だけでなく、何でもやりますと稀にみるいい人材が見つかり、現在は助かっております。

 

 

Q.制作会社各社は新卒採用など人材面で苦労しているのですが、PASSIONさんはいかがですか?

新卒採用に関しては毎年、面接官をしておりますが、弊社は割とスポーツ経験者や地方からの応募者が多くて、割と粘り強く、覚悟を持ってきている人が多いかもしれません。

 

Q.水田さんから見て、一言で言うとPASSIONはどんな会社ですか?

あたたかくアットホームな会社です。自分にとっては宝箱のような会社ですね。
榮永が立ち上げた会社ではありますが、自分の会社という気持ちです。
しっかり守らなきゃいけないなと。
スタッフみんなが働きやすい環境を作ることが管理部の仕事、、、使命だと思ってます。

 

Q.制作現場にも出られることがあるとお聞きしましたが?

現場にも出させてもらっております。設立当初は4、5人しかいなかったので、「24時間テレビ」では2、3人分の仕事をしないと回らなくて大変でした。最近は日本テレビの「Going!」や「野球中継」でAPという立場で携わっております。明日は、YouTubeの仕事で亀梨君を担当しておりますので現場に行きます。このような感じで現場のことを知った上で、スタッフの育成に繋げてます。
育成と言いながら、結果自分が育てられてます。ロケや収録後の精算が一番最後の作業になっちゃう気持ちは凄くわかります。そんな時は経理と現場スタッフの間に入って互いのフォローをしてます(笑)。

 

 

 

Q.ズバリ榮永社長はどんな社長ですか?

この質問は聞かれると思い色々メモってきましたので全部読み上げますね。
人柄の良さ。その人柄の良さが全て人脈につながっている。
人一倍、何にでも興味を持つ人なので物知り、知らないこと無いんじゃないかな。「榮ペディア」とよく言われてるんですよ。知らないことを質問すると何でも答えてくれます。
人への感謝、恩を忘れない人。全てのスタッフへ労いの言葉もかけてくれますし。
仕事への姿勢や相手に合わせることが基本。
新人へも目線を下げて対話する。
あと相当マメな人です。関わる人へは勿論、アスリート選手たちへも必ず一言LINEを送ったりと。
社長は、客観視できるバランス感覚抜群の方です。
メンタルにおいても抜くところは抜きコントロールが出来ているなと。
現場が辛くてもその場を楽しみ、何でも面白がりながらやる人です。
顔に出さないですし、全ての人にフラットに対応してます。
真似したくても出来ないです。。。
あとはお茶目なところもあり、女性スタッフからは「カワイイ」とか「ボスベイビー」とか言われたりしますね。

 

Q.社長への大絶賛が止まらない水田さん。社長に何かこうして欲しいとかここを直してほしいとかありませんか?

特にはありませんが、強いて言えば、会社の場所や収録現場へ送迎することがあるのですが、道を通り過ぎた後に「さっきのところ、なんで右に曲がらなかったの?」と後出しで言ってくるので、そこはもっと早く言ってもらいたいですね(笑)。

 

Q.それでは最後に、PASSIONをさらに成長させるために挑戦してみたいことはありますか?

挑戦ではないですが、今年の1月と2月に、経理がいなくて私がやるしかなくて、簿記も持っていない中、全くわからなくてかなり大変でした。顧問税理士さんたちに助けられながら何とか止めずに乗り切れました。これをきっかけに数字全体をもう少し学んで経営にも携わってみたいなと。
世の中の流れや最新の情報を入れながら勉強できればと考えております。

 

―― 水田さん、ありがとうございました。再び、榮永社長に伺います。
Q.最後に、経営者として、制作会社を経営していく上でどのようなご苦労がありますか?

人材の育成ですかね。我々の時代は、こうなりたいと全国から集まってきて、どう競争して生き残っていくかみたいなところがありましたが、今はそういう人はいないですね。
10年後、20年後はこうなりたいという人はいないから、そういう人たちのモチベーションをどう持っていくかっていうのは難しいですね。3年でキャリアアップしたいと辞めて次に行こうみたいな人がデータを見ると35%とか40%いるじゃないですか。
考え方や価値観の違う人をどう経験積ませて育成していくか。
育成後、「今後もディレクターとして続けていくことが出来るだろうにな~」という時に辞められちゃう。
人をどう育てていくか、ということがこれからのこの業界の課題かなと思います。

 

あとは経営という観点かどうかわかりませんが、今のフジテレビ問題だったり、いろんなコンプライアンスの問題であったり、番組制作は今、「高速道路の真ん中を走れ!」と、言われているような気がするんです。要するに「安全に道の真ん中を走りなさい」と。「ちょっと蛇行して、ギリギリ走ってみよう」ということをしてはいけない体制になっていますよね。そうなると、別に運転テクニックはいらないし、普通に言われた通り走れる人で、制作会社はいいんじゃないかと思う人が増えると思うんですよ。
自分のやりたいことや企画をしたい制作会社ディレクター達はクリエイターとしてのフラストレーションが溜まっているのかなという気はします。

 

だからこそ、僕はYouTubeを始めました。そういうフラストレーションを発散するために自分の好きなフィールド、やりたいことをやれるフィールドを作ってあげようと思ったんです。

面白いことをやりたいなって思った時にテレビで出来ないのであれば、アウトプットをどこでするか。それでSNS動画班を社内で作った経緯があります。

制作会社はSNS動画制作だけだとお金にならないので、やらない会社もありますが、弊社はタレントさんやスポーツ選手からの依頼は多いです。それをどうマネタイズ出来るかが課題ですね。

あとは、オリジナルコンテンツをどこまで作れるか?みたいなところで、外国人向けのオリジナルコンテンツを作ったり、企業案件を積極的にやっています。

サブスク系やSNS動画の売上を伸ばし、今のテレビの売り上げと同じにしてテレビとSNS動画のハイブリッドでやっていかないと、制作会社は持たないと思うんですよ。そこが僕の目指すところですかね。

 

あと、子会社でスポーツマネジメント会社を持っております。
オリンピック選手やプロ野球選手のマネジメントをやりながら、スポンサーさんとパートナーシップを組み、パッショングループとして全てが出来るシステム作りをしています。これは壮大な夢なんですけど。
我々はテレビの制作会社ですけど、映像にまつわる全てをやっていける新しい形の制作会社を模索したいというのがありますね。

 

  

社内にはトップアスリートたちのお宝の数々が‥。

 

―― 本日は貴重なお話をありがとうございました!

広報委員の後記!

榮永社長は会社名パッションそのものでした。未だ衰えないその“情熱”をメディアを目指す多くの若者に伝えたく、今回はあえて大作にしました。
今回語って頂いた榮永社長の貴重な制作秘話は往年のテレビマンにも忘れていたあの頃の情熱を思い出せたのではないでしょうか。
情熱のあるところに人が集まり、何かが生まれる。そんな好サイクル、見本にしたいものです。取材にご協力ありがとうございました。(取材・文 NX中山維夫)