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澤田名誉会長放談

テレビ開局60年、地上波デジタル放送への移行も一段落つき、新たな時代が幕を開けました。そこで、テレビが産声をあげた時から放送業界に携わってこられた澤田名誉会長に、制作プロダクションの存在意義や行く末など、当時のエピソードを含めてお話をお伺いしてきました。今回は、テレビの創成期、そして制作プロダクションが誕生したキッカケについてのお話をお送りいたします。

 

《第4回》

 

■テレビ制作黎明

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テレビが誕生して60年、私がテレビ番組づくりを始めて55年、ラジオで番組作りをして3年目で民間ラジオの勢いがグーンと上昇した時期でしたから、誰も見ていないテレビの番組づくりをするようにと上司から告げられた時ははっきりイヤだと思いました。
ラジオの人気番組はマンガ本になったり映画化されたりしたので出演者は大人気、その公開放送や実演劇場には大勢の客が押し掛けたものです。そんなラジオの制作部から テレビの受像機が高価だったせいもあって普及にはかなり時間がかかった時期にテレビの制作部へ職場が変わったのです。
これからは、テレビの時代が来ると分かってはいても、覚えなくてはいけないことが山のようにあって、しかもなにもかもうまくいかないので絶望的な毎日でした。でもADとしてスタジオに入るとラジオでおなじみのお笑いタレントが目の前にいるのが心強く、やがてカメラの動きを見ながらキューを出す事も出来るようになってきました。慣れる間もなくディレクターとして、番組を担当させられる事になります。「やらないと覚えないよ」という先輩たちの言葉に励まされコメディ番組のディレクター席でキューを出します。 「終」のタイトルを出したとき、ズボンのお尻は冷汗でビショビショになっていました。
鼻歌を歌いながらD卓に座るという境地になるまで5年はかかりました。
そのころにはテレビの受像機も普及して私が演出している番組がいろんなところで話題になるぐらい見られるようになってきました。

 

■当初の制作プロダクション

制作プロダクションというのはテレビの歴史の中で15年20年経って出てきたものです当初はテレビ局しか番組を作れない状況がありました。個人でテレビ番組をつくろうと思ってもテレビカメラとスタジオか中継車、最低これだけのものを持っていないとどうしようもない。テレビ局も外部から人を入れなかった。僕がNHKに行って作らせてくださいとお願いしたら、「うちにはディレクターいっぱいいますので作家かタレントだったら歓迎しますが」と断られたものです。

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これは今も昔も変わりなし。いまから40年前のことになりますがね。その頃が制作プロダクションの創成期ですよ。テレビカメラで番組を作れるのは10社もなかったんじゃないですかね。 ビデオが導入されるまではフィルム制作プロダクションがいっぱいありました。京都の太秦の近くにもありました。東宝はいち早くテレビ制作室をつくって、「やりくりアパート」の制作にからんでいました。それからアメリカのテレビ映画を日本語に吹き替えて大当たりした太平洋プロなんかもあってそういう意味では、テレビ創成期からテレビ局だけでまかなって番組を作るということは当然できませんから外注はしていたんです。
ところが生の制作をできるスタッフというのはテレビ局にしかいなかったのに、労働組合がテレビ局でも結成されて経営者は困った。制作プロダクションができたキッカケはこの労務問題からなんですよね。
例えば泉放送は、もともとTBSでラジオのプロデューサーをやっていた泉さんがつくって、局舎以外に放送設備を建ててそこに常駐させたつまり、労働組合が局を占拠したときにそこから番組が出せるようにしたんですよ。大阪の場合は、全国ネットの番組はそんなにないけど、読売テレビは「11PM」があったので、これにストをかけられたらいかんということで千里にスタジオを作って、ストになると職制がそこへ行って放送したのです。

 

■「儲かったら赤飯が出た!」当初スタートした頃のテレビ業界

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当初テレビ業界は合理化なんて考えていませんでしたし、イケイケ状態でしたね。とりあえずスポンサー探せと躍起でした。まあなかなか見つからないんですけどね(笑)。「新聞紙なら、まだ読んだあとでも弁当包んだりできるけど」なんて話がでるくらい、テレビなんて誰が見ているかわからない不確実なメディアと思われていましたし、本当にテレビCMで商品が売れるのかという不安はスポンサー側にありましたね。僕がラジオからテレビに移ったときはテレビができて2年は経っていましたけども、まだそういった苦労話を営業担当から聞かされたものです。
今ではテレビ局に入るのはエリートといった感覚がありますけど、当時はベンチャーに近いもので、いつ潰れるかもわからないと言っている人はたくさんいましたよ。
それでもそんな時代はあっと言う間に通り過ぎて、労務問題について考え、経営について考えようってなったのは開局して十何年経ってからですかね。
それまでは作っている人も経営している側も無我夢中で、「儲かった」って言っては全社員に赤飯が出るなんてこともありました(笑)。そのくらい利益が出ること自体に驚きがありましたね。

 

■無理やり出来た制作プロダクション

開局して15年ほど経ったくらいの時でしたかね。大企業は毎年何十名何百名と採用して、同じように民放もやってきたわけですよ。ところがハッと気がついたら、こんなことしていたら上がつかえて大変なことになる、退職金も払えなくなるぞという試算が初めて出されまして、えらい事になるぞ、これは制作プロダクションを作らなければとなって、その存在を認め育成する姿勢になった。だから制作プロダクションができた理由っていろいろあって、番組を作りたいという人たちの純粋な気持ちだけで制作プロダクションの時代がきたわけではないのです。

⇒第5回へ続く

 

インタビュー:三村裕司(ネヴァーストップ)
ライター:山戸良祐