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澤田名誉会長放談

澤田名誉会長の語る「テレビ史」。 第3回は、当時のテレビ制作の現場のお話から今後、テレビはどうあるべきかを語っていただきました。

 

《第3回》

 

■技術がなくても知恵で乗り切る

今はナマ放送というと特別な感じがしますが、初期のテレビはナマ放送が当たり前、テレビ映画とドキュメンタリーがフィルム制作、あとはナマ放送ですから、スタッフもタレントも放送時間には全員テレビ局のスタジオにいたわけです。私が「てなもんや三度笠」を演出していた頃は、もうテレビがスタートして10年近くたっていましたが、観客を入れての公開放送の舞台のどこにもマイクが見えないので、最近ビデオを見たテレビに詳しい人から、「どうしてセリフをとったんですか」と聞かれます。
今は、ワイヤレスマイクを付けているのがはっきりわかるし舞台の床にマイクが置いてあるのが写っていますから、観ているうちにマイクが写らないのが気になって不思議に思うらしい。特にゲストの歌手の歌は、プレレコでしょうとよく聞かれますが、すべてナマで歌ってもらっていました。マイクはフルサイズでも写りこまない高さに舞台の前面のバトンから何本も吊り下げてセリフも歌もとっていました。
そのためにはカット割りでサイズを細かく指定する必要があります。セットの全景を正面から写すことはなく、奥行きを出すように下手からナナメにFSをとるのでマイクは写らないのです。後ろの方で喋るときはマイクを木に吊ったり、建物で隠したりする。マイクマンもセットを飾りこむ大道具さんや小道具さんもみんな知恵を出してくれました。
スタッフ全員が「できない」は禁句で「どうやったらできるか?」を常に考えてくれたおかげの大ヒットです。

 

■ビデオテープの登場

テレビ番組の制作で一番大きな変革はビデオテープが発明されたことではないでしょうか。
昭和33年5月、大阪テレビ(59年に朝日放送に合併)が日本で最初にビデオテープレコーダーを輸入したんです。東京のテレビ局からも見学にやってきました。
勿論、私たちも見に行きました。ものすごい音をたてて2吋のテープが廻るのを見ているだけで興奮したものです。
6月1日、早速ビデオを使ったコメディーが放送され、私は一番大きなモニターのある玄関ロビーで見て画面を写真に撮りました。この歴史的瞬間をなんとか記録しておきたかったのです。
まずビデオテープレコーダーが写って技術部長が説明したあと演出部の吉村繁雄次長が演出したミヤコ蝶々・南都雄二主演の「ちんどん屋の天使」が放送されました。
蝶々・雄二のちんどん屋の夫婦が長屋に住んでいるシーンはナマ放送、それを天使の蝶々・雄二が雲の上から見ているシーンはビデオで、ナマとビデオを切り替えながら進行するという単純な 構成でしたが、同じ俳優が瞬時に切り替わってストーリーが進行するナマではありえない展開に感激して見ていました。
2吋テープが高価なので余程の理由がないとビデオは使えませんでしたが、「びっくり捕物帳」では、ダイマル・ラケットさんが劇場に出演する、森 光子さんが東京の劇場に出演するという時にビデオで収録するという使い方だけに許可が出ました。
それまではナマ放送でしたから、同じ時間帯に舞台や別のテレビ局に出演することは絶対に不可能だったのが、ビデオの導入によって主役級のタレントスケジュールに合わせてビデオ収録ができることになったのです。
もう一つ利点がありました。「びっくり捕物帳」は前編で事件が起り、後編で解決するという形式なので、ナマ放送で前編をお昼に放送したあと、同じキャストで後編をビデオで収録するということを考えました。タレントは、次の週に仕事を入れられるので収入は増えますし、テレビ局としてはセットの費用やスタッフの人件費が一週分いらなくなる、これはいいということで、だんだんタレントのスケジュールに関係なく後編はビデオ収録になります。そのうちに土曜日にリハーサルをしているのだからそのまま収録したらということになり、土曜日に前後編収録というスケジュールになります。

 

編集は、まだ不可能でしたから収録はナマ放送と同じで、多少のトチリはそのまま放送します。大きな失敗があると頭から撮りなおしになるので別の意味の緊張感がありました。 いずれにせよ徹夜になることが多くなりました。
まず脚本家が倒れました。週一本のペースが崩れたせいだと思います。台本を受け取りに行くと奥様に「うちの主人を殺す気ですか」と寝込んでいる先生の枕元で迫られましたが「すみません」というしかありませんでした。私たちスタッフもフラフラになっていたのです。
大阪に4局も民放テレビが開局したこともあって「やりくりアパート」の大ヒットで大村崑さんはひっぱりだこ、舞台は開演時間が決まっているのでその間をぬってテレビのビデオ撮り、映画の早朝ロケ。
深夜撮りもあるというわけでとうとう倒れて大きな話題となりました。テレビ時代の人気者がどんなに苛酷なスケジュールで追いまくられるかがはじめて世間の人に知られることになりました。いまもあまり状況は変わっていませんが 最近は、テレビの人気者が舞台や映画に出演することが少ないので助かっています。 これはこれで問題ですが・・・・。

私が実験的にビデオを使ったコメディーを企画したのが「どろん秘帖」でした。
甲賀流の忍者のダイマル・ラケットが戦国時代に活躍するという設定で、甲賀流忍者の流れを汲む藤田西湖先生に指導してもらい、本格的な忍者の作法や九字を切って呪文を唱えると煙が出てパッと消えるなど映画でおなじみの忍術ものをコメディーでやってみようと意欲マンマンで取り組んだんですが、ナマとビデオの切り替えでリハーサルではうまくいった消えるシーンが本番では大失敗したり、煙の出が小さくてセットから逃げるところがマルマル写ってしまうなどサンザンで、思い切ったビデオの使い方もできないままにドジな戦国忍者のコメディーになってしまい視聴率も上がらず企画変え、「スチャラカ社員」になりました。
そのあと「隠密剣士」が日曜夜七時の人気番組となり、やはり忍者物はフィルムがいいなァと知らされたものです。そのうちビデオテープもどんどん安くなって、すべて消さずに番組を選んで残すようになりましたが、いまは2吋のビデオレコーダーが日本には1台も残されていないという噂もあり、フィルムと違って埋もれていた2吋ビデオが発見されたとしても、内容が何かを簡単にチェックできないかもしれません。
アメリカではアーカイブという考え方が発達していてテレビの番組もかなり古いものが残っています。
日本で番組を残そうという意識が生まれたのは再放送とかビデオ化など、古い映像が金になる、商品化できると気がついてからだから、かなり遅い気がします。
10年前、20年前の映像やテレビ番組が再放送される意味は、なつかしさだけではなく、 その作品にクリエーターがインスパイアされて現代に再生するなど、計り知れないものがあります。

 

 

 

■カラーテレビの登場

ビデオ・テープの導入に続くテレビ界の大きな出来事が「カラー化」でした。
そもそも世の中はモノクロの世界ではないのですから、映画も最初はフィルムの1コマずつに色をつけてカラーで上映したということです。
アメリカは戦前からカラー映画がありましたが日本映画のカラー化はかなり遅れました。でもテレビ時代に対抗するための手段として大型画面とカラー化の時代が同時にやってきて日本映画を変えました。テレビは相変わらずモノクロでしたが、昭和40年代に入ってテレビ受像機の売れ行きが頭打ちしてくるとカラー化が動き始め私も実験放送にかり出されたりしました。
TBS系列が正式にカラー放送に踏み切ることになったのを効果的にみせるため、人気番組だった「てなもんや三度笠」が選ばれました。「てなもんや三度笠」をカラーでみた人はどの位いるのでしょうか。色をだすために照明が強く、かつらがこげたり変色する、セットの木が枯れてしまいました。
本番一日前にカラーテストのため本番と同じことをやり、カラーカメラで新しく導入したカラービデオレコーダーに収録し、スタッフがプレビューして計算通りの色が出るかどうかテストすることになりました。
スケジュールがいっぱいのレギュラー陣を使えないので新人で「てなもんや二軍」を組み本番通りリハーサルをして収録をしました。毎週、毎週大変な作業でしたがカラー化というテレビマンの夢を実現するという喜びと使命感が勝って苦痛ではありませんでした。少なくとも私は。でも二軍をやってくれた俳優さんにはいつも申し訳ない思いがしていました。

 

■テレビの今後は

テレビが日本に誕生して60年、ビデオテープやカラーテレビなど、技術はどんどん発展していきます。現在もテレビの画質が良くなったり、ホームシアターなど音質の良いスピーカーが出てきたり、3Dなど、とにかく技術が発達しています。
さらに、10年ほど前から台頭してきているインターネットの存在も軽視できません。
アメリカのキー局はインターネットを経由し、パソコンでテレビを見られるようにすると発表したそうです。
今、インターネットは情報を得るためのものと捉えている人が多いと思います。
しかし、今後テレビの電波の受信機が全てパソコンにとって代わる日も来るかもしれません。そんなとき、テレビマンはどんなコンテンツで勝負すればいいのでしょうか?
ここで、テレビは原点に立ち返って、テレビでしか見られないソフトはなにかしっかりと考えなくてはいけない、そんな時期にきているのではないでしょうか。
そしてそういった人材を生み出し育てること、それが今のテレビ業界に必要なことかもしれません。

 

⇒第4回へ続く

 

インタビュー:三村 裕司(ネヴァーストップ)
写真:岡村宇之(ウッドオフィスグループ)
ライター:古木深雪