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広報委員が行く!会社訪問

ライコー株式会社

ライコー株式会社まるでデザイナーズマンションのようなゲート

所在地 : 鹿児島県鹿児島市錦江町4番68号
電 話 : 090(227)0600
HP : http://laicoh.com
代表取締役社長 : 大須仲志
昭和60年 ライコー株式会社設立
平成 3年 本社ビル落成
平成 5年 鹿児島県内96市町村の紹介番組『ぐるり鹿児島』制作開始
平成 8年 MBC南日本放送と資本提携

 

「広報委員が行く!会社訪問」第23回は、維新三傑のひとり西郷隆盛を輩出した地・鹿児島にどっしりと根を張り続ける番組制作プロダクション「ライコー株式会社」にお邪魔しました。
地域密着型制作会社の経営と戦略について、〝平成の西郷どん〟こと大須仲志社長に迫ってみました。

 

ライコー株式会社社長 大須仲志氏

Q.当地鹿児島で西郷隆盛が愛され続けるのはどういった理由からなのでしょう?

やっぱり郷土愛というか、島流しにあっても新政府の反逆者となりながらも故郷に戻って若者たちの教育に尽くしたというあたりですかね。

 

Q.大須社長もまた、西郷どんと同じように鹿児島に戻った?

いやいや、そんな偉人と並べられるのは恐縮すぎます。 私の場合は、大阪で気ままな大学生活を送っていましてね。プロポーズ大作戦で5番の席に座って玉砕(笑)するような大学生でした。
とにかく映画が大好きで、映画館に通い、時おり撮影所でバイトをしたりしていました。将来は映画界で身を立てるなんて夢もあったんですが、実家の事情でUターンを余儀なくされたワケです。

 

Q.映画青年が故郷に帰ってまず何を?

まずは就職しなくちゃならんということで、色んな人が就職先を探してくれまして。本人は「映像関係の仕事がしたい」と譲らないので困ったんでしょうね。その中のひとりが「とりあえずウチに来い」と。小さい広告代理店に入社しました。

 

Q.希望通りに映像関係の仕事はできましたか?

はい、静止画像の地方CMを(笑) ただ、その時の人間関係が今も生きているんです。5年ばかり制作だけでなく営業も経験して、地元の多くの企業の人びととも知り合いになれましたし、何よりもカメラマンやオーディオのクリエイターたちと仲良くなりました。

 

Q.昭和60年にはライコー株式会社設立ですね?

その前年に準備会社として有限会社が設立されまして、参加することになったんですが、小さな会社だったので企画・演出から営業まで何でもやりましたね。 株式会社化して2年後には代表権のある専務取締役に就任し、その11年後に代表取締役です。

 

Q.ライコーという会社名はどこから?

カメラのライカから取りました。ソニーのロゴが好きでした。大事な社名ですがあっさり決まりました。

 

Q.設立当初のおもな業務内容はどんなものでしたか?

MBC南日本放送の報道制作部からの取材、番組の委託です。当初はいろいろ制約が多かったんです。例えば、外部のスタッフはロケ車を運転してはいけないとか…そういうひとつひとつのことを話し合いながらクリアしていって、「ライコーに任せれば間違いない」と信用を得るようになりました。
『プロジェクトX』でドキュメンタリーとして放送された8・6水害「竜ヶ水駅水害事故」の時など、南日本放送とライコーのスタッフが一緒になって不眠不休で報道取材しました。そういう自然災害などの対応で、社内社外を問わずスタッフ間に信頼関係が生まれるようなこともありますね。

※8・6水害「竜ヶ水駅水害事故」…平成5年、集中豪雨による事故。鹿児島市竜ヶ水駅における濁流と土石流からの乗客乗員の救出劇。

 

ここでいったん大須社長のインタビューを中断し、取締役統括本部長の有村清己さんにお話をお聞きしてみました。

 

ライコー株式会社 有村清己氏

Q.大須社長と有村さんの出会いは?

社長が以前いらした広告代理店の頃、カメラマンとして一緒に仕事をするようになりました。その後、ライコー設立時にカメラマンとして呼んでいただきました。
社長がディレクターで、私がカメラマンで、専務常務の鹿加島がオーディオという3人のクルーで制作する、というのがライコーの始まりでした。
「西郷や大久保の様に日本は変えられないが、せめて鹿児島を変えよう」というのが社長の口癖でして、私もそう考えています。
弊社の社員は全員が新卒ですが、それも私たち3人を初号モデルとしているからなんです。仕事のイロハを覚えたての若者たちが「最強のクルー」を組んで、これからのライコーを盛り立てていってほしいと願っています。

 

Q.最強のクルーが信頼し合えたのはどういう理由なんでしょう?

とにかく毎日のようにロケに出て、毎日一緒に過ごしていました。実は私たち3人とも子供がいないんです。社長はよく、「男同士でいつも一緒で家に帰らなかったからな」と言うんですが、そのぶん、社員たち全員がわが子という感じはありますよね。ライコーを後継していくのは、新卒で入って来た社員たちなんです。

 

インタビューの途中、自社ビルの中を案内してもらいました。1〜3階には生放送を出せるスタジオと副調整室が完備し、編集スタジオやMAルームも充実しています。まさに地域に密着した小さな放送局という印象でした。

 

自社ビル内にどーんと構えるスタジオ広々とした第1編集室

 

Q.会社設立から6年後には自社ビル落成…その飛躍の理由はなんでしょう?

自社ビルを建てた時には「ライコーはこれで終わった」なんて(笑)噂が立ちましたけどね。実はその原動力になったのが、竹下登内閣の政策なんです。

 

Q.政界との黒い癒着ですか?

いえいえ、「ふるさと創生基金」というのが昭和60年に実施されまして…全国の市町村にもれなく1億円ばらまくという例の政策です。金の延べ棒を展示したりとか、温泉を掘ったりとか、いろいろな市町村がありましたけど。鹿児島県の市町村は手堅いというか地道というか、多くが使われずに基金にされていたんです。
そもそも鹿児島という県には大企業が少なくて、焼酎とかお茶とかの地場産業が中心なんです。そのためパイは小さいんですが…「市町村には大きなパイが眠っている」と(笑)

 

Q.そこで市町村に狙いを定めたんですね?

いざ市長や町長に会ってみると非常にわかりやすくトップダウン方式なんです。首長が「やってみよう」と言えばそれでOK。そこが大きい企業とは違う。むしろオーナーカンパニーの酒蔵とかお茶屋さんとの付き合いが多かった私には慣れた営業プレゼンテーションでした。
96の市町村をくまなく回り、その首長に映像制作の商談を持ちかける毎日でした。これが会社を存続するためのターニングポイントになったんでしょうね。 弊社の看板番組となった『ぐるり鹿児島』は、それが核になっています。

 

Q.では最後に、地域に密着した映像制作プロダクション、その発展の秘訣をお聞かせください。

私たちの業務を医療に例えるとすれば、大都市の制作会社は総合病院だと思うんです。さまざまな専門分野を持つ医療スタッフが在籍して、それぞれの患者のニーズに応えていくことが必要でしょう。
それに対し、私たちのような地方の制作会社は診療所でなくてはと考えます。少人数のスタッフでどんな病気にも対応し、ひとりひとりが多くの専門分野をカバーしなくてはならない。私たちは常に〝町のお医者さん〟でいようと考えています。

広報委員の後記!

鹿児島市内の一等地に自社ビルを構えるライコー株式会社。西郷どんの風貌を彷彿とさせる大須社長は、まさに薩摩隼人を思わせる優しき豪傑でした。噴煙を上げる桜島を眺めながら思わす口ずさんだのは…「♪花は霧島、煙草は国分、あれに見えるは精鋭ライコー軍団」…でした。

 

インタビュアー:広報委員 株式会社オズマ 成田はじめ