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広報委員が行く!会社訪問

株式会社ジッピー・プロダクション

所在地:東京都渋谷区恵比寿1-19-15
ウノサワ東急ビル3F
電 話:03-6821-7773
FAX:03-5792-7700
HP:http://www.zippy-pro.co.jp/
代表取締役:荻原伸之
代表取締役:渡邊宏

 

今回、私たち広報委員がお邪魔したのは、 「株式会社ジッピー・プロダクション」
情報ヴァラエティ番組を中心に制作している制作会社さんです。
設立は1985年2月13日。
かれこれ四半世紀の歴史を持っている会社です。

会社所在地は、オシャレタウン恵比寿駅から徒歩3分の好立地。
恵比寿で3番目に敷地の広いビルといわれるウノサワ東急ビルの3階。入口にシャレたデザインの社名ロゴが迎える。
社内に入ると、広い空間の制作フロア。そこに、社員ディレクターやADの皆さん方が生き生きと仕事しています。

聞いて驚いたのですが、社員の皆さんの決まりのデスクはなく、各自が会社に来てから思い思いにその日に座りたいデスクにパソコンを一つ持って陣取っていいシステムだそう。そして、一日の仕事が終わったらそれぞれの仕事道具を各自に決められたロッカーにしまって帰宅する。翌日、出社したらまずロッカーに行きパソコンとかの仕事道具を持って、 また好きなデスクに座って仕事を始めるという。

 

従って、一日の仕事が終わるとデスクの上にはなにも置いてない、スッキリとした状態になっているというわけ。 こうしておくと、社内で特定のグループ単位で集う事もなく、変な派閥も作らず、風通しのいい雰囲気に自然になるそうです。
そうやって知ってから、フロアを見渡すと、どことなく大学のサークルの様な解放感を感じました。

このようなシステムを“フリーアドレス制”と言い、最近IT企業や営業の部署などで導入されているそうです。
つまり、営業周りで出ずっぱりとか、外での打ち合せが多い業種とかで、自分のデスクを決めてもその席にほとんどいない場合、特定に決めずその席はフリーとして皆でシェアして使うということ。
実に、テレビ業界向きのシステムだなぁと思いました。
もっとも、プロデューサーとなると、さすがに資料も多いしデスクワークが多いので、そこだけは決まりのデスクにしているようですが。
ちなみにジッピーさんが今の所在地に、元の渋谷から移転したのは3年前。
その移転を機に、今のフリーアドレス制にしたそうです。

さて、ジッピーさんの社員数は80名。
他にもう一社、AWASさんという姉妹会社が同じ社屋にあります。
こちらの方は、テレビ地上波や、その他の映像事業を中心に展開しておりまして、
エージェンシー事業とコンテンツ事業に分かれているそうです。
エージェンシー事業の方は、主に派遣を主として行っています。

コンテンツ事業の方は、インターネットコンテンツやモバイルコンテンツ、WEBの企画・制作を行っています。
代表は、先代の社長で現会長の林えり子氏。
総勢50名ほどのスタッフがいるそうです。

 

さて、株式会社ジッピープロダクションは、二名代表制をとっております。
いわゆる社長が二人。
創立は1985年で初代社長は松永社長。そして二代目社長は林えり子社長。
で、三代目に引き継ぐ時に、話し合いによって二名代表制を取ることにし1人はプロデューサーの荻原伸之氏。1人はディレクターの渡邊宏氏になりました。
プロデューサーとディレクター、二人三脚で歩んできたお二人を紹介致します。

 

三代目社長・荻原伸之代表に聞く

 

荻原代表は、現在54歳。ジッピー入社は23年前。31歳の時でした。
それ以前は(株)テレテックにいました。テレテックの技術畑の営業を9年間こなし、
その時の体験がその後のプロデューサー業に活かされているといいます。
テレテック時代の営業のやり方として―――――

お得意先であるテレビ局や制作会社のプロデューサーのデスクを廻る。曜日、時間を決めて、なにかなくてもとにかく廻る。

「技術の仕事でなにかないですか?」
「何もないよ」

しばらく(2ヶ月位)はその繰り返し

やがて、相手も顔を覚えてくれて「お茶でも飲んできなよ」

そのうちに何かしら会話するようになって(3~4ヶ月目)

やがて、仕事をくれるようになる(半年後)

その時のセールスマン的粘りや押しが、のちにプロデューサーになった時にも活きて、
人を待ったり、人に無視されたり、怒られたりは全然苦でなくなったという。
テレテック在籍9年が経った頃、テレビ制作の分野に興味を抱くようになってきた荻原代表。

テレビつくりのすべてをやってみたいという気持ちがむくむくと湧いてきたという。
そこで、当時の上司で荻原さんをずっと育ててくれた木村さん(現テレテック取締役)に相談してみた。
上司の木村さんは荻原さんの気持ちを分かってくれて円満退職。
ジッピーにAPとして入社した。

ジッピー入社後、最初に受けた洗礼は当時“伝説の鬼のディレクター”といわれた佐藤孝吉さんの壁だった。
佐藤孝吉さんは知る人ぞ知る日テレの名物ディレクターで、当時の「木スペ」で天才ドキュメンタリーディレクターとして数々の番組をヒットさせていた人だった。
その佐藤孝吉さんが、当時総監督として力を入れていたのが「追跡」という番組。

当時「追跡」はジッピーの初代社長、松永さんがプロデューサーをやっていて、荻原さんはその下でAPとして働いていた。
「追跡」では制作プロダクションの各ディレクターが作品を上げると、“孝吉さんの鬼のチェック”を受けるシステムだった。
孝吉さんが視聴室に入ると、VTRを流す。と孝吉さん、VTR開始早々の2カット目くらいで「はい、ストップ!!」の大きい声が掛かる。
「番組のアヴァンの1カット、2カット目が一番大事。この始まり方はダメですね。ここからやり直し!!」
その様子を見て荻原さんは唖然とした。
「20分のVTRのまだはじめの10秒も経っていない。ひぇ~、この先どれだけの直しを言ってくるのだろう…」
またある時は、視聴室で孝吉さんが座るやいなや、VTRテープのスタートボタンを押したADに 「はい、ストップ!!君はADか。ならばVTRのスタートボタンは僕かあるいはディレクターが“スタート!”と言ってから押すべきだろう。今、見逃したワンカットはディレクターが血のにじむような思いで撮ってきたワンカットなんだ。その事がわからない君はADとしての資格なし。はい、君はその役から降りてください。はい、誰か代わって!!」とADを降格させてしまった。

 

まだある“佐藤孝吉伝説”。それは前出の松永プロデューサーの企画提案で 「孝吉さん、「はじめてのおつかい」の変型で「はじめてのお台所」という企画はどうでしょう?」と提案してみたところ、孝吉さんは「おもしろい!!」と言ってすぐノった。
お母さんが病気で子供が料理を作らなくてはいけないとか、働くお母さんの仕事が残業になり、子供たちだけでお料理を作らなくてはいけない、といった理由で子供が初めて台所に立ち、うろ覚えながら料理にとりかかるという企画。

30分番組のうちVTRは20分。6つの家族に協力をしてもらいいよいよ孝吉さんチェックにいどんだところ。
視聴室で6ネタを見終わった後、孝吉さんはこう言った。
「あとは?」「あ~、いえ、これで全部ですが…」と答えると、「甘いですね。“はじめてのおつかい”は3本通すのに20本は用意してきますヨ!」と言い放った。
「ひぇ~~~厳しい~~~」荻原さんは背筋が凍った。

まだまだある“佐藤孝吉伝説”。
荻原さんはPとして、“追跡”の企画で「単線の旅」という企画を孝吉さんに提案した所、孝吉さんはOKをくれた。
そこで荻原さん、企画を練りに練って、北海道の釧路を走る単線列車の取材を敢行した。
1ヶ月ほどかけて作品が出来上がり、早速“佐藤孝吉チェック”を受けたところ、ダメ出しを数か所受けた。で、再び釧路に出かけ、再撮をしたり編集をし直したりして再度“孝吉チェック”を受けた。
が、またまたダメ出しを数か所受けてしまった。
番組の予算枠もとうにオーバーしていたが、再び釧路へ。
再撮、再撮、以前取材させてもらったところへ再度頭を下げたり、大変な思いをして再編集をしてようやく3度目の“孝吉チェック”に臨んだ。
そして結果は………またしてもダメ出し。それも数か所。都合3回目のダメ出し。
再々々度、釧路へ出かけねばならないところだが、そのうちにディレクターも他の仕事で忙しくなり、荻原自身も他の仕事に追われ、それ以上撮っていられなくなり、 結果「単線の旅」はジッピーに赤字を残したままボツとなってしまった。
番組作りの厳しさを思い知った出来事であった。

 

佐藤孝吉さんの教えを受け、APとして成長していった荻原さん。
やがて、手掛けたのが日テレの日曜午前中に始まった「いつ見ても平々凡々」。
司会は、逸見政孝さん、野際陽子さん、間寛平さんで、ゲストに有名人親子をお招きしてトークする番組。
この番組が順調に進み、1年後リニューアルで「いつ見ても波瀾万丈」となって、新たに司会に間寛平さんを迎え、その後も高視聴率で人気番組として定着した。
その中のコーナーとして、ゲストの人生をVTRでじっくり見せるという企画を入れたところ、これがヒットしたのも大きな要因であった。
実はこのコーナー、前身の番組「いつ見ても平々凡々」の時に1分で人生を見せるというミニコーナーの拡大リニューアルとしたものではあったのだが。
折りしも当時の日テレで、日曜の夜に「知ってるつもり」という大番組があり、それの“生きてる人版”というところもヒットの一因になっていたかも知れない。

 

さて、荻原さんといえばもうひとつ。
実際に本人と会っている人はお気づきと思うが、大変に声がいい。
「まるでアナウンサーの様な声だ」とお思いの方も多いはず。
実は荻原さん、大学は日大芸術学部放送学科アナウンス課を専攻していたのである。 卒業後は、当然アナウンサーになるべく各局のアナウンサー試験を受けていたのです。 その中でも、NHKの試験はユニークだったという。

まず、試験官がいない。
1人でスタジオに入れられる。
カメラが3台ほどある。
そこにオフで声が聞こえてくる。
「そこに置いてある原稿を読みなさい」
で、少しとまどいながらもアナウンサー口調で読んでみる。と、その直後、オフで「不合格です」とジャッジが下されたというのだ。
あの時は、結構ヘコみましたね、と本人の弁。
そんなこんなでアナウンサー試験は全局落ちたのだが、そんな中フリーのレポーターの
仕事があり、やってみたところ好評で、その会社から正式にレポーターにならないかと誘いも来た。聞けば月収4万だったという。
一方、同時に志望していたテレテックの方は、月15万の月収だった。
安くても声を活かせるレポーターで行くか、安定したスタッフの道で行くか、荻原さん、大いに迷った。
だがその時、荻原さんには彼女がいた。結婚も考えていた。で、出役(でやく)はあきらめてテレテックに入社したのだった。

 

三代目社長・渡邊宏代表に聞く

 

さて、次はジッピ−プロダクションを支えるもう一人の代表、渡邊宏さんに伺います。
渡邊さんは入社28年目。
ずっとディレクター一筋で生きてきた方。
主な番組歴を並べさせて頂きますと―――――
スーパーテレビ
フジテレビで特番
テレ東でクイズを3年
日本テレビ「いつ見ても波瀾万丈」
日本テレビ「行列のできる法律相談所」
日本テレビ「ザ・世界仰天ニュース」
フジテレビ「火スペ」
TBS「水トク」

いろんな番組で苦労を重ねてきた渡邊さんですが、多くの仕事歴の中で、特に思い出深いターニングポイントというべき番組を伺いました。

 

≪ターニングポイント≫

 

それは、日本テレビ・月曜9時から放送のドキュメンタリー番組「スーパーテレビ」でした。
渡邊さんは、ADとして入って2年目。当時30歳、そろそろディレクターに昇格して、 一本撮ってみたいなと思っていた頃。
プロデューサーの柏木登さんから「そろそろ1本撮ってみないか?!」と声が掛かり、 取り組んだのが「森のレストラン」という企画。

静岡県の浜松市にいるオーナーシェフの人が、同じ静岡の森町という森林地帯でレストランを開業する。
つまり、移転をする。その顛末をじっくり撮るというドキュメンタリー。
しかもそのオーナーは、森町に畑を既に買っており、その畑で自家栽培したものだけを
食材として調理し、店で出すというスタイルにしたいのだという。
つまり、生産者と作り手が同じ人。
オリジナル料理にこだわりたいという。
日本テレビの柏木プロデューサーは、
「時間はいくらかかってもいいからいいものを作ってこい!!」と言ってくれた。
で、渡邊さんは静岡に出かけた。
密着で撮影するため、むこうに部屋も借りた。

 

・まずは引越、移転の様子から撮り始めていく。
・そして自家栽培の様子。
・オリジナル料理のメニュー作り。
・店内のテーブルの配置。
・周辺の農家からアドバイスを受ける。
・オーナー自ら、お百姓さんとなって開墾し、種を植えたり収穫したり、肥料をあげたりの農業の様子を密着取材。

その間、渡邊さんも東京へ戻ったり、行ったり来たりの日々。
一体、何本のテープを廻したか…
放送時間は1時間の枠。その中で膨大な素材をいかに編集してまとめるか、悩みに悩んで 苦しみぬいて作品を作っていく。
オーナーもオーナーで、栽培した素材をどう料理化していくか悩んでいる。 時に、密着している自分にオーナーが相談を持ちかけることもあった。 。

オーナーの試行錯誤、自分も試行錯誤。
やがて店もオープン。お客がやってくる。おいしいといって食べてくれる。
オーナーは泣いている。自分ももらい泣きだ。
汗と涙の結晶の作品も完成した。
気がつけば1年が経っていた。
ひとつのドキュメンタリーで1年も追う、「NHKスペシャル」並みの取材時間じゃないか。
完成品を下見した柏木プロデューサーは笑いながら言った。
「いくら時間をかけてもいいとは言ったが、まさか1年とはな…これじゃジッピーさんの収支合わないんじゃないの!」
晴れて放送された作品「森の中のレストラン」は視聴率13%。数字的にも成果は出た。
渡邊さんは泣いた。
そして心の中でつぶやいた。
「これでやっと(ディレクターとして)立てた…」と。

 

今、ジッピーでは…

 

二人の苦労人の代表が、今、力を入れて社内の体制作りとしてやっていることが二つある。 ひとつは「コンプライアンス委員会」あとひとつは「コーチングスタッフ」。
「コンプライアンス委員会」とは、若手育成の為、ADたちに3~5分の作品を作らせる。 そしてコンテスト形式にして優秀賞を決める、というものだ。
実際にこのコンテストで入社2年目のAD が優勝。

今、そのADは「未来シアター」という番組でロケDとして活躍している。
「コーチングスタッフ」
これは月に一回会議をしていて、ADの具体的な配置について討議する。
例えば、このADを1年でDにしよう。
そのためにどうしてやるか、皆でミーティングをする。
また、ひとつの番組に入っていて人間関係を含めて行き詰っているADがいるとすると、
違う番組に移してみるとか、ADの精神衛生を配慮する会議である。
80名もいるスタッフは、タテの流れとしてはチームワークがあるが、ヨコの繋がりを
あまり持てていない。その辺のつながりを持たせ、全体に風通しを良くし、活性化していくという社の方針が各種委員会であり、フロアーのデスクを固定化しない等に表れている。

 

最後に若手のディレクターに、ジッピーの会社について聞いてみました。

 

南村(なむら)洋志さん
立命館大学を卒業後、ジッピーに入社。
大学時代、ラジオやイベントをやったり、吉本にも出入りして外から業界を見てきた。
はじめは放送作家に憧れていたが、ある先輩から言われた言葉
「本当にテレビが好きならディレクターになった方がいい」で考えを変えて、制作会社を希望した。
「行列のできる法律相談所」が好きだったのでジッピーの入社試験を受け、入社。

Qジッピーに入って大変だった事は?

A.入って2年目で希望がかなって「行列のできる法律相談所」の配属になったが、
特番の掛け持ちもすることになった。同じ日テレの「サタデーバリュー」を
やっていくうちに、チーフADが都合が悪くなりいなくなってしまった。
急遽、自分にチーフADの役がまわってきて大変な忙しさに。「行列―」との掛け持ち、
特番の方もめっぽう忙しい。と、胃が突然痛くなり、仕方なく医者に行ったら
胃に穴があいている、との診断。
2~3週間、入院するハメになってしまった。
「やりかけの仕事をほっぽり出すことにもなり、体は言う事を聞かないわでつらかったです」

 

Q.ジッピーに入ってよかった事は?

A.いつも部下を気にかけてくれる上司がたくさんいてあったかい会社だと思います。

広報委員の後記!

とにかく社内に自由で活達な空気が流れている会社だな、と思いました。社名の“ジッピー”とは「元気がある」「きびきびとした」という意味があるそうです。 その名の通りの社風に自然になっている、という気がしました。

 

インタビューアー:広報委員(有)オフィスぼくら 岩立良作
写真撮影:ウッドオフィスグループ(株)岡村宇之