今回訪問したのは、90年設立のアルゴピクチャーズさんです。 岡田裕社長は50年以上も映画製作に携わっている生粋の映画人で、僕自身も岡田さんが作った映画を観て青春時代を過ごしてきました。大先輩の話が聞けるということでワクワクしつつも、ちょっと緊張しながらインタビューに臨みました。
今回訪問したのは、90年設立のアルゴピクチャーズさんです。 岡田裕社長は50年以上も映画製作に携わっている生粋の映画人で、僕自身も岡田さんが作った映画を観て青春時代を過ごしてきました。大先輩の話が聞けるということでワクワクしつつも、ちょっと緊張しながらインタビューに臨みました。
Q.今現在、年間どれくらいの映画に携わっているんですか?
製作に関しては現在はだいぶ減ってまして一年に1本とか。あとは3年間に2本とか長期に関わっている映画があります。 |
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Q.岡田社長はどういったご経緯で映画プロデューサーになったんですか?
大学時代に、自由舞台っていう演劇サークルに入ってたんですよ。当時、60年代安保の頃だからサークルっていうのは非常に活発でね。春夏定期公演をもって、地方公演もやってっていうセミプロみたいな学生サークルだったんで、授業にはほとんど出ないでサークルの活動ばっかりやってた。そのために語学の授業や体育の授業とか必須の授業に全く出れなくて単位を落として4年で卒業できなくて。で、そういうサークルって4年で「先輩打ち切り」って、卒業させられちゃうんですよ。だからもう5年はもうやることなくって麻雀ばっかりやってるみたいなね(笑)
そういうときにたまたま日活で助監督の試験があるっていうんで、まあそれもいいかなと思って受けたんです。本来は新聞記者とかそういうことをやりたかったんですけどね。
日活には助監督として入ったんですが、しんどいしむちゃくちゃで、夜なんかほとんど帰れないで調布の寮に泊まってたりしたけど、それでもやっぱり人間関係に惹かれて10年やったんですよ。
その頃に日活が傾いてロマンポルノに転ずるんです。当時僕はチーフになってたんで監督にって言われてたんですが、そのころ丁度プロデューサーが少なくなってたんで、もしできたらプロデューサーをやってくれないかという話がきたんですよ。
僕の師匠であった蔵原惟二だとか藤田敏八と相談したらば「もうすぐで監督になれるのに、それを捨ててプロデューサーをやるなんて、 なにをバカなこと言ってるんだ」って言われて、 でもそんな型にはまったことになんとなく反発してね。
それでロマンポルノ第一作目(『色暦女浮世絵師』曾根中生監督)からプロデューサーをはじめたんです。
Q.90年の設立当時はどのような形で会社を立ち上げたんですか?
今はテレビ局発注の映画が多いですけど、当時は東宝東映松竹もプロダクション発注がわりとあったんです。そういった仕事を受けていた小さい制作プロが6つが集まって映画の自主的な配給をするためにアルゴを作りました。シネマアルゴ新宿、シネマアルゴ梅田という独自の劇場ももちまして、そこに配給して興行もするという製作興行配給一体の形ですね。けど、そのへん難しくてね。6社は東宝東映松竹から受ける仕事というもそれぞれやってるわけなので、どうしてもそういう言われたものを作るのではなく、 自分たちが作りたいものを好き勝手に作るわけですよ。 そうすると企画そのものが甘くなったり、 なあなあになったりするんですね。
「12人の優しい日本人」とか「櫻の園」とか話題の映画は当たるんですけど、一方で当たらないものもかけていかなきゃいけない。そうすると無理が出ちゃうんですね。つまり、すごく片方が入っているのに打ち切って次の映画をかけると、これはもうまったく入らないという極端な差が出てくるんです。
でもまあ青息吐息でやってたんですけども、3年目で出資をしてくれていたサントリーが映像事業から撤退することになって、そこでほぼ解散状態になっちゃった。それで制作部門だけでうちが残って継続してやっているというのが経緯ですね。
Q.当時はかなり斬新な映画をたくさん作られていましたね?
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そうですね、その3年間はなかなか面白い企画をやれてましたね。
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アルゴプロジェクト作品
Q.立ち上げようと思ったきっかけはどういったものだったんですか?
映画はご存じのように製作と配給と興行と3つのビジネスがあって、それぞれ分かれています。しかし昔は大きな5つの映画会社がそれを全部一緒にやってた。
自分のところのスタジオで専属の監督、専属のスタッフ、専属の俳優を使って映画を作って、自分のところの劇場で自動的に流していくという形ですね。石原裕次郎がだーっと年間何本あって、それに高倉健、寅さんというようなシリーズがあってという。そういった大作の合間に文芸作品だとか芸術作品とか世界の映画祭に出ていく作品だとかを作っていたんです。いろんなものがごちゃまぜになって、全体で収支をとっていた。 だから全然無名でも、新人を育てたという映画があった。
それが映画の売り上げが落ちてくると、映画会社が自然にスタッフを外に出していって、製作っていうのを切り離したんですね。それでそういう映画はなくなってしまった。このことは7,80年代に痛感していました。
丁度そんなことがあったなかを潜り抜けてきたというのがうちなんかの流れですよね。
でも中小が作るような小さな芽みたいなものは誰かが作り続けていかないといけないと思っています。宣伝をがーっとやって入れてくるという映画だけでマーケットがすべて埋まっていくと、質がどうしても落ちていくと思うんですよね。気付かないうちに落ちていく。それが全体の客を下げていくっていうふうに僕らは思ってるからね。
Q.若い才能ある人たちを育てていくかということについてはどう考えてますか?
やっぱりね、監督あるいはシナリオといった才能がどう発掘されるのかというところで、一番大事なのはプロデューサーなんですよね。
シナリオを読む力、それで監督の才能を認める力、それから俳優の芝居にしろね。どういう観客に対してどれくらいの金がかかって、どいうふうにだしていった場合にこういくと。それがシナリオを読みながら見えていくという眼力が必要です。
テレビ局の良さみたいなものに引っ張られた映画が多くなっていく一方で、そこから人間観察に対する眼力がこぼれていくんです。
もちろん映画を当てるのは一番大事なんだけれど、その当て方が視聴率をとるとういう考え方と同じように量で解決してゆくんですよね。
映画でもテレビでも面白いというと表面の大きな仕掛けだとか3Dだとか思いがちだけど結局最後に支えているのは人間で、奥行きなんですよね。どんなでかい映画でもね。 そういう意味で質を保つプロデュースの眼力が一番大事だと思いますね。
Q.これまでに携わった映画で思い入れの深い物をあげるとしたら何ですか?
角川春樹事務所の全盛のときに雇われてやった「復活の日」という作品です。このあいだ亡くなった小松左京さんが原作ですが、舞台は東西冷戦のなか、ソビエトもアメリカも細菌兵器でつぶしあって人類が死に絶えた後の世界なんです。
深作欣二監督でカメラが木村大作、日本映画界の集まり得るベストのスタッフでね。SF技術がほとんどない中、巨大なスケールで撮影は本当に大変でした。最初にシナリオを見た時に、本当にどこから手をつけたらいいか見当もつかなかったですよ。原子力潜水艦が浮かんでるし、撮影用のヘリコプターもいるし、基地も用意しなくちゃいけない。そういう撮影するための段取りが大変でした。
例えば南極っていうのは、ポーラーシップっていって、船の先端が鋼鉄になっていてそれで氷を突き破れる船でないと行けないんですよ。ところがそのポーラーシップっていうのは世界に何隻かしかないわけです。それを各国の探検隊が何年も先まで抑えちゃってる。そういうなかでどうやって南極まで行こうということになってね。
ニュージーランドから南極まで小さな飛行機が出てるんですが、それだと3,4人しか行けない。「南極物語」っていうフジが作った映画ではこの飛行機で高倉健さんも入ったんですけども、僕らの場合は仕掛けが大きいんでとてもそんなものでは足りない。なんとか船をっていうんでやっとニューヨークにある観光船を見つけて借りることになりました。それ以外にチリの海軍から潜水艦を一隻借りて。それにヘリコプターが2台積める海軍の輸送船も借りました。この編成で南極にたどり着くまでの段取りだけで1年間くらいかかりました。そういうことをして、いざ撮影がはじまると本当に「ああできたなあ」という感じがしましたね。
Q.今後のアルゴさんのお作りになられる映画のビジョンはどんなものですか?
撮影所システムが持ってた良さっていうものと、今の映画に欠落しているものの間を埋めていくことをやっていこうかなと。 |
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Q.今、作品としてはどういったものを手掛けてらっしゃるんですか?
いくつか企画はありますけれども、今やってるのは丁度撮影が終わった「トテチータチキチータ」という作品です。
震災前の福島で企画したもので、ずっと手助けしてたんです。それが震災でだめになるかなと思ってたら、逆に福島の連中がこれを作ることで「福島もまだ立派にやってるんだ」ということを映画作りの中でやりたいという動きが出てきて、それでお金が集まって、どうやらやることができた。この映画をこれから来年の3月から4月にかけて配給していくということをやってますね。
Q.ガラッと変わってしまうんですけど、仕事以外で余暇の過ごし方はどういったことをされてるんですか?
一つは旅と、それからカジノ。世界のカジノに行くのが好きですね。
海外ロケの経験が多かったものですから海外には割と慣れてる方なんですよ。
どこに行くのでも自分どころかスタッフも段取りしなくちゃなんないわけだから。
それで、かみさんと二人で海外に行ってカジノのルーレットをやるのが一つの愉しみですね。
Q.失礼ながら、どれぐらい儲けになったことが?
ほんとに大したことないですよ、一番儲けても50万位ですね。そのかわり、損しても5万以上損したことはないですね。ディーラーと自分とのリズムみたいなものがあってね。盤面のトーントーンとこうくるとかここらへんに集中するとか。その流れをつかみながら最初のうちはちょこちょこっと張ってて、だんだんディーラーの流れに張っていくんですよ。
ディーラーがさっとくずれて、その勝負に勝った時はどっと入るという。
そのためにね、僕は長いんですよ。4,5時間座ってますから(笑)
Q.最後に、映画を作りたいという方々へ向けてメッセージをいただけますか?
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今、中間の芽が伸びにくい状態になってるんだけど、お金をかけられないものはかけられないんだから自力で作り上げていくことだと思います。 |
ここからは経理を担当してらっしゃる熊谷睦子さんに社長の人柄をお伺いします。
Q.普段の業務はどういったことをされているんですか?
そもそもは経理として入ったんです。でも、もともと宣伝のこともしていたので、映画の宣伝や配給のことも徐々にやっていまして、劇場ブッキングもやっています。 |
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Q.アルゴさんはどんな会社ですか?
私は入社する前にもうアルゴプロジェクトやシネマアルゴっていうのがあったことも知っていて、その頃は地方にいたんですけど憧れの会社でした。邦画界をリードしてきてるようなイメージがありましたね。
あとは映画の仕事も幅広いのでいろんなことができる会社ですね。
Q.一番身近にいらっしゃる熊谷さんから見て、岡田社長はどんな方なんでしょうか?
映像業界でかなりキャリアの長い大先輩なので、何を聞いても教えてもらえますし、どういう事態でも大体対処していただけるのでとても心強い社長ですね。
代表製作/プロデュース作品
最初は私も緊張してたんですが岡田社長はすごく物腰が柔らかで紳士的な方でいらっしゃって、途中からは私もただの映画好きな少年になって話を聞いていました。 もっとたくさん面白い話をしていただいたんですが、全部載せられずに残念!
インタビュアー:(株)タイムライン 磯貝昌彦
写真:ウッドオフィスグループ(株)岡村宇之
(2011年10月取材)