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澤田会長放談

今回は、昭和30年代の制作現場の熱気と裏話、さらに知られざる映画界との関係について語っていただきました。

 

《第6回》

 

入場料収入だけが頼りだった頃の映画と、スポンサーのCM料だけが頼りの民放テレビは経営の基本が全く違うから、ソフトに対する考え方も全く違いました。
日本の映画界はハリウッドを常に手本にしてきたし、日本の商業放送もアメリカを手本にスタートしたけど、日本にはNHKがある。初期の民放の経営者は苦労したと思います。
昭和30年、僕が朝日放送に入った時、大阪で民放といえばラジオだけでしたが、「見えない電波に宣伝をのせて誰が聴いているか判らんものに金を払う人なんかいるのか」「商売になんのんか」とよく言われました。でも昭和30年の春ごろには、ラジオの公開放送に大勢の人が押しかけるのが当り前、ラジオのお笑い人気番組が次々と映画化されたりして、経営者達は自信をもって民放ラジオの前途を語るようになっていました。

 

日本ではテレビはまだまだと思っていたんですけど、正力松太郎さんが公職追放ですることがなかったからか猛然とテレビの開局に動き出し、NHKと先陣争いをしながら商業放送の日本テレビが開局しました。
東京放送も申請を出して民間放送が2局になり、大阪では1局だけ認可されて大阪テレビが開局しました。
映画は2本立て興行が当たり前になり、總天然色とシネマスコープの大画面を売り物に観客を集め、テレビなんか電気紙芝居だと問題にしていませんでした。
東映が第2東映を作ったころが映画のピークだったと思います。そんなころに大阪テレビへ行ってお笑い番組をつくるようにと辞令が出ました。お笑い番組はおもしろくてよく観ていたけれど、自分で作りたいと思ったことがなかったから大変でした。まずはADの勉強で、すぐ担当したのが開局以来の人気番組『びっくり捕物帳』で主演は中田ダイマル・ラケットと森光子。この時新人の藤田まことと僕は運命的な出会いをします。

 

大映が『びっくり捕物帳』を映画化しますが、主演は梅若正二。
テレビからはダイマル・ラケットだけで、レギュラーの森光子、藤田まことは出演なし。テレビの『びっくり捕物帳』とは全く違う映画の捕物帳のつくりでした。

『びっくり捕物帳』は日曜の12時15分からの30分番組で、土曜の昼から本読み、ドライ、衣裳を着てカメリハと夜まで続きます。スタッフはそれからカット割、深夜までかかって泊り、日曜は早朝からカメリハ、かつらをつけてランスルー、生放送というスケジュールでした。

 

終るとすぐ隣りのスタジオへ飛び込んで「ナショナル日曜観劇会」の生コマーシャルのディレクターです。
これも開局以来やっている番組で、大阪の大劇場公演の中継の幕間にスタジオから、コマーシャルをつけるんです。
TDが全部やってくれるので僕は泉大助さんにキューを出すために必要なだけ。

 

芝居の中継がはじまると隣のスタジオに行って新番組「やりくりアパート」の様子をみにいきます。
これにもADでついていたからです。
まるでスタジオはラッシュアワーの駅みたいな混みようで、作・演出の花登筐さんのあいさつのあとアパートのセットの前からドライリハーサルがスタートします。新番組のスタジオはみんな勝手がわからないので大混乱するものですが、「やりくりアパート」は出演者が多い上に、東宝テレビ制作室の制作なので担当からえらい人まで何人もきている。ダイハツの提供でミゼットを生CMでスタジオに持ち込んだのでスポンサーも代理店もそのまわりにいるという騒ぎ。

 

そんな中で番組を進行するフロアディレクターは大変でしたが、もっとびっくりしたのは北野劇場に出演している佐々十郎、大村崑、茶川一郎、芦屋小雁といったメインキャストが2回目の舞台へ戻るため時間が来るとスタジオから消えてしまうことでした。
僕も後CMのキュー出しのために隣のスタジオに戻ります。という具合に日曜は三つのスタジオを走りまわっていました。 
「やりくりアパート」に最初からついていたおかげで実演劇場のコメディアン達がテレビに出演することでアッというまに人気者になっていくのを体感します。

 

最近知ったんですが、この「やりくりアパート」が映画化されていたんです。
僕は喜劇映画のポスターをコレクションしてるんですけど、「やりくりアパート」のポスターがあるというので驚いた。当時制作部にいたのに噂も聞いたことがなかった。
それ位あのころは映画とテレビは、別世界だったのかもしれません。
番組はミゼットの生CMが受けてたし、佐々やん、崑ちゃん、茶川さんと人気がうなぎのぼりの昭和34年、宝塚映画で製作されたポスターには有島一郎と益田喜頓が大きくて佐々十郎、茶川一郎、大村崑の顔は下段に出てました。
話題にならなかったし僕は観ていないけど多分テレビのおもしろさとは違う映画のコメディになっていると思います。

 

ラジオやテレビの人気番組を映画化した作品を何本もみていますが、つまらない。
テレビの人気番組を映画化してもテレビと違うものをみせてやろうという映画人の思いがそうさせたのだと思います。興行成績は知りませんがテレビをみていた人が映画になったのをみて満足したとは思えませんでしたね。でもテレビで世に出たコメディアンにとっては、映画に出演できることは夢のようなことだったと思います。

 

撮影所で佐々十郎と大村崑が扱いに我慢が出来ずができず途中で帰ってきたことがあって大騒ぎになったことがありました。 
藤田まことが「てなもんや三度笠」でやっと人気者の仲間入りしたら大映の『悪名』シリーズに出演、上りが心配で封切り初日に映画館へ行きました。終り近く藤田まことが登場すると満員の客が笑いました。テレビで使ってた『耳から手を突っ込んで奥歯ガ夕ガタいわしたろうか』のギャグで大爆笑。「てなもんや三度笠」が受けていることを実感してうれしかった。

 

そのあと東映から「てなもんや三度笠」の映画化の話がきました。
「やった!」と思いました。
東映からの企画ではなく、俊藤浩滋さんの持ち込み企画でした。
藤純子さんの父で後に東映を支えた任侠シリーズからやくざ路線の生みの親になる人ですが、その頃はTBSの荻元晴彦さんのアイ・ジョージの「太陽の子」というドキュメンタリーを東映東京撮影所で映画化したという経歴で、アイ・ジョージのマネージャーとして有名だった古川益雄さんが「次はてなもんや三度笠がいいよ」と推してくれて突然僕のところへ俊藤さんを連れてきた。
それこそいろんなことがありましたが、東映京都撮影所で内出好吉監督によって映画化されることになります。
映画界については、僕は高校生の頃から読んでいる「映画之友」「スクリーン」「キネマ旬報」が情報源という映画ファンで、当時どこにもテレビのほとんど事は書かれていませんでした。

 

昭和33年、そのころの映画とテレビの内幕を描いたテレビ番組が放送されました。
TBSが芸術祭参加番組として放送した『マンモスタワー』。演出は石川甫さんで主演は森雅之。映画でよく見ている名優がテレビに出ていることだけでスゴイと思う時代です。制作部のモニターで、みんなで見てたんですが映画会社の重役の金子信雄がテレビのことをボロカスに言っても、誰一人「ひどいこと言うなァ」とつぶやきもしませんでしたね。僕は、「そうなんだろうなァ」と思ってみていて「いまにみていろ!」なんて気持はなかった。

 

TBSが同じ年に芸術祭参加で放送した岡本愛彦さんの『私は貝になりたい』は大評判で放送翌日、制作部でみんなが感動を語り合っていたものです。
テレビドラマでこんなに話題になった番組ははじめてだったのではないかな。
主演のフランキー堺さんと演出の岡本愛彦さんも脚本の橋本忍さんもこの作品で1段上にランクされ、いまでも初期のテレビドラマの秀作として必ず挙げられる作品ですが、実は『マンモスタワー』も芸術祭で受賞してるんですけど、忘れられてしまった。

 

でも私はこの二本のドラマにはいろんなショックを受けています。
森 雅之がテレビでみられるという驚き。森 雅之さんは新劇の俳優ですから、上原 謙、若原 雅夫、三船 敏郎のような映画俳優ではないんですけど、「羅生門」をはじめ名作と言われる映画の知的な二枚目といえば森雅之でしたからそんな人がテレビに出たということで驚いたんです。
それとコメディアンのフランキー堺さんがシリアスドラマで通用するという驚き、日活の初期の喜劇とか名作『幕末太陽伝』もおもしろかったがコメディアンの演技でしたからね。

 

テレビによく出ていた金子信雄さんがニクニクしい感じを出してテレビをこきおろす、日活映画ではその後そんな役ばかりやってますけど、「マンモスタワー」この時には驚きました。
ともかくこの『マンモスタワー』が僕の頭に、“映画界はテレビをあんな風に見てるんだ“という情報がインプットされ、中学生のころからあった映画への憧れを捨て去ることが出来たのです。
それからの私はテレビに全身全霊を捧げることになります。

 

 

記事担当:三村裕司 (ネヴァーストップ株式会社)